着物の仕立てと仕立て直し伊藤和裁

伊藤和裁の成り立ちと想い

伊藤和裁の成り立ちと想い 1/4

はじめに

まずは、会社名 『伊藤和裁』の屋号についてです。私の苗字の伊藤から来ています。

伊藤一族は、愛知県一宮市の出身、愛知一宮の伊藤になります。名前のルーツを辿る(タドル)と、私の伊藤姓も≪【伊】勢≫の≪【藤】原≫氏で【伊】【藤】に繋がります。

母の父 伊藤源三郎は、戦前は、成人すると愛知県一宮市から大阪に上京、大阪市福島区の淀川沿いで、一族や同郷の人達と集まって、メリヤス工場を何棟も持ち、アメリカとも取引をし、手広く経営しておりました。戦中は軍に工場を没収され、その後、日本が敗戦、戦後は源三郎は、メリヤス工場で培った知識を見込まれ、同業のメリヤス工場に勤め、副業の貸し長屋とで家族を養います。(ちょっとしたエピソードあります。当時、祖父の貸し長屋にあの経営の神様、松下幸之助が住んでいたそうです。その長屋で二股ソケットを考案したと祖母タカから聞きました)。

1936年12月31日に母の母 伊藤タカから一人娘 私の母、一恵が生まれます。戦争に負けてしまい、日本の将来がまだ、はっきりと見えない時、タカは、高校まで通わせた、一恵に手に職をつけさせます。一恵18才時、和裁の手習いを始まます。伊藤和裁の種が和裁業界に撒(ま)かれました。

1958年、石川県出身の佐原喜朗と結婚。父は、国際電信電話『KDD』に勤め、一恵は和裁の免状を貰い、和裁を教え始めます。そんな日々の生活を送っていました。すると、当時は地域の人が集まり、情報交換と社交場でもあった近所の銭湯で知り合いの方から、声を掛けられます。

『一恵さん、和裁を教えてましたよね。私の勤め先が着物を仕立ててくれる人を探しているのよ。宜しかったら、お店の着物を縫って貰えないかしら。』と、伊藤和裁の種が芽吹いた瞬間です。

1972年 高度成長期の中、大阪市西淀川区花川南の町に仕立て経験者を集い、伊藤和裁として、事業を始めました。着物の仕立てが来るようになり、毎日、朝から夕方までは大手デパート、大手呉服チェーン店、京都着物メーカー様、大阪、京都の悉皆屋さん、などの着物や羽織などをお弟子さん達と仕立て、夜には、会社帰りのOLさん達に着物の縫い方を教えていました。

伊藤和裁も一か所では仕立物を捌き切れず、和裁所を大阪府下の新大阪・淡路・庄内・石橋・枚方・高槻・三国ヶ丘、兵庫県下には、川西・塚口・西宮・姫路に開設し、のちには、西は福岡・広島・愛媛、東は名古屋・東京・仙台まで、和裁経験者を集めて、次々と和裁所を開設、取引先のニーズに応じてきました。

ここでエピソードです。

伊藤和裁として事業をやり始めた時の事です。 和裁経験者募集のチラシを業者に委託するお金も無く、夫婦で自作のチラシを電信柱に貼りに回った時の事です。
今では、電信柱にチラシを貼るなんて法令で禁じられています。当時はそれほど厳しくなく、父が仕事から帰って来て、夕飯を済ませ、人通りがなくなる頃を見計らってチラシを貼り回っていたそうです。チラシ貼りが厳しくないとは言っても、おまわりさんに見つかれば、キツく咎(トガ)められます。夜な夜な、父が糊(ノリ)の混ざった水の入った重いバケツと刷毛を持って、電信柱やチラシの裏面に塗り、母はそのチラシを貼る係だったそうです。簡単に素早く出来そうなものですが、辺りに誰もいないと分かっていても、人に見つかりたくないと気持ちが心理的に働き、二人の息が上手く合わなかったそうです。
母はふたりの連携を他人の様に見ていると『可笑しくて、可笑しくて、(笑)』、でも、声に出して笑おうものなら、父が怒り出すの目に見えていますので、すごく笑いを堪えるのが大変だったと夫婦の思い出話を楽しく笑顔で語ってくれました。